「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来を語る」トークショーを開催
文/アイスプレスジャパン編集部 写真/今井豊蔵、アイスプレスジャパン編集部
1/15(日)、アジアリーグアイスホッケーのオールスターイベント「アイスホッケーヒーローズ2」2日目のメインイベント・オールスターゲームの前に、日本アイスホッケー連盟(以下:日ア連)による『日本アイスホッケー連盟創立50周年記念行事』が開催された。
「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来を語る」と題された座談会では新旧アイスホッケー界のレジェンドがリンクに勢ぞろいし、VTR出演となった2人とともにおよそ40分間にわたってトークが繰り広げられた。
この「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来を語る」は、SNSや記事などでその内容が紹介されているが、今回は数多くのアイスホッケーファンの皆様にトークの内容をそのままお伝えすることが必要ではないかという編集部での判断により、当日の座談会の様子をほぼそのまま書き起こしでご紹介する。
ぜひお読みいただき、読者のみなさまが「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来」について考えていくきっかけになれば、と思う。
なお、この記事は前編、中編、後編の3回に分けてお送りする形となっている。
日ア連創立50周年記念行事「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来を語る」
座談会開催に先立ち、アイスホッケーヒーローズ2のMC・木部ショータさんより出席者の方々が紹介された。
(MC:木部ショータさん)
これより公益財団法人 日本アイスホッケー連盟創立50周年記念座談会、「日本のアイスホッケーの過去、現在、未来を語る」を開催いたします。はじめに、ご登壇いただきますアイスホッケー界のレジェンドの方々をご紹介します。
星野好男(ほしのよしお)さん
1950年生まれ。栃木県日光市出身。日光高校、明治大学、国土計画でプレーをし、札幌、インスブルック、レークプラシッド冬季五輪代表として活躍。現在も、東京都オールドタイマーリーグで現役続行中です。
三浦孝之(みうらたかゆき)さん
1967年生まれ。青森県八戸市出身。八戸高校、西武鉄道でプレーをし、長野冬季五輪代表としても活躍。現在東京女子体育大学監督。アメリカでプレーする三浦優希(みうらゆうき)選手のお父様でもあります。
福藤豊(ふくふじゆたか)さん
1982年生まれ。北海道釧路市出身。東北高校、西武プリンスラビッツをへて、日本人で唯一のNHLプレーヤーとしてロサンゼルスキングスで活躍。現在、H.C.栃木日光アイスバックス
に所属するとともに、日本アイスホッケー選手会長を務めていらっしゃいます。
大澤ちほ(おおさわちほ)さん
1992年生まれ。北海道苫小牧市出身。苫小牧東高校、道路建設ペリグリンでプレーをし、ソチ、平昌、北京冬季五輪に女子代表の主将で出場。昨年現役引退を表明し、現在全国で後進の指導を行っていらっしゃいます。
そして、司会進行は、ご存知アイスホッケーの実況でご活躍の「加藤じろう」さんです。それでは、加藤じろうさん、進行の方、よろしくお願いいたします。
(司会:加藤じろうさん)
皆様、この座談会は昨年9月に日本アイスホッケー連盟が創立50周年を迎えたということで、これまでアイスホッケーを愛してくださった皆様への御礼として、この間に日本代表として功績のあった名選手に歴史の一端を紹介していただき、これからもアイスホッケーを楽しんでいただきたいという趣旨でお話をうかがうものです。途中に山中武司男子日本代表コーチと平野裕志朗選手からのビデオメッセージもいただいておりますのでご紹介します。
では、さっそく星野さんからお話を伺ってまいりましょう。よろしくお願いいたします。
星野好男さん
「技で競う部分がアイスホッケーの面白さ。世界から名選手が集まった日本リーグ」
(星野好男さん)
はい。私は栃木県日光で生まれまして、当時古河電工というチームが日光にはありまして。子供の時に、毎日古河の練習を見に行って、アイスホッケーに興味を持ちました。それで高校のときに初めてインターハイで優勝して、ちょうど札幌オリンピックが始まる3年前ですね。
非常に当時は、アイスホッケーを非常に強化しておりまして、その当時、それこそ世界一周ですね、2ヶ月間遠征というのがありまして。その3年間、非常に日本のアイスホッケーを強化していただいたのが、私が一番アイスホッケーを楽しんだ時期かなと思います。当時は日本のアイスホッケーは、まだ世界で10番手前後の順位でした。
もう少しでAグループに行けるということは何度かありましたが、実際にはAグループに入る一歩手前。試合終了1分前に負ける、とかっていうことがありまして、Aグループに入れず現在に至っているような状態でございます。当時の日本アイスホッケーリーグは非常に盛んでありまして、北海道、日光それから東北ですね、非常に選手が多かったということは覚えております。
(司会)そしてですね、星野さんご自身はやはりホッケーが大好きだというお話でしたけども、魅力はどの辺だったでしょうか?
(星野)そうですね、やはり当時は非常に当たり合うというか、激しいプレーが多かったんですが、私はあんまり当たりも好きじゃなかったんですけども、技術というか、技を使ってプレーするのが非常に面白くて楽しくホッケーができました。
(司会)そして当時では、珍しかったかもしれませんが、海外留学なども経験されたと伺っておりますが。
(星野)会社に入って1年間、カナダの方へ留学させていただきましたが、当時はアマチュアの規定が非常に厳しいときでありまして。今と違いまして、アマチュアがプロに入団した時点でアマチュアの資格がなくなるということで(海外の)プロには一切、携わりはできませんでしたけども、できるんだったらいってみたかったなと思いました。非常にカナダでアイスホッケーの厳しさを、力がないと試合に出られないということを学びました。
(司会)そしてまた戦いということになりますと、当時は王子製紙が絶対的な力を持っていて、そして星野さんが所属していらっしゃったコクドも印象的な選手が多くてですね、本当に勝った負けたという試合が繰り返された日本のアイスホッケー界のゴールデンカードでしたけども。
(星野)そうですね、当時王子製紙がインスブルックの世界選手権、オリンピックのベストプレーヤーがソビエト連邦、今のロシアですね、そこから来ましてウラジミール・シャドリンやユーリ・リャプキンなど素晴らしい選手だったんですけども。そういう外国人相手に我々国土計画などもいい外国人が入って来て戦えましたけれども、非常に厳しいゲームで非常に面白いゲームが続きましてですね。その当時も、やはりそのソビエトのトッププレーヤーが日本に来てやったということで、外国人選手が非常に多くなった時代です。
(司会)そのお話にあったものですけども、当時の外国人選手のソビエトですとかカナダというのは強豪でしたけれども、当時のその日本リーグの選手はどんな印象だったんですか?
(星野)私達のチームにもカナダとかフィンランドから選手が来まして、試合や練習をしますと自分たちで好きなようにやるんですね。それで日本人は軽く見られてまして、相手にされないような感じなんですが。実際に試合が始まりますと、彼らも一緒にやろうと助けてくれというようなことで、一緒にチームとして成り立ったのは思っております。
(司会)はい。ということで当時のお話をいただきました。星野好男さんでございました。ありがとうございました。
続きまして、この時間はこのビデオをご覧いただきましょう。
男子日本代表山中武司コーチ
「ジュニアの試合が非常に多いカナダ。日本でもそういった環境を広げたい」
(山中武司コーチがVTR出演)
私にとって日本代表というのは、小さな頃の憧れであり、そしてオリンピックでプレーするなんていうことはまさに私にとって夢のまた夢のような話だったんですけど。いざ努力が実り、仲間に恵まれて、長野オリンピックの舞台に立てたときは本当に嬉しかったですね。この日本代表でプレーできる魅力と私が感じていたことは、日本代表というのは常に自分を成長させてくれる場であったと思っております。日の丸を背負い、責任を持って世界の強豪と戦う。
自分の知らないようなレベルの高い選手たちと戦い、挫折や達成感を味わい、また成長したいと感じさせてくれる。アスリートとして本当に幸せな場であったと、私は感じておりました。
まずディフェンスとして相手を確実に押さえられる力強さが最低限必要かと思います。スケーティング能力、パワーに優れていること、そしてさらに必要なのは特別なスキルであると思います。シュート力、パスセンス、もしくは強靭なディフェンスプレー、そういった特別なスキルを持つことが必要かと思います。
私はカナダでジュニアAのU-20以下の選手たちのチームを指導していましたが、彼らを指導していて思ったことは、彼らは自分たちの主張をしっかりすること。そして自分のセールスポイント、長所に自信を持ってそれを人前で話せる。そしてそれをプレーで実行するというのが非常に印象的でした。
私は、カナダでジュニア層の活動を目にすることが多かったんですが、特に中学生小学生以下の子供たちに関しては、本当に試合数が多いというイメージがあります。
それは公式の戦いではなくて週末に親御さんたちが手作りで作るようなトーナメントを開いて、たくさんの子供たちが試合する環境を整えています。日本でもそういう環境が広がればいいなと思っております。
山中武司さんのVTRが終わり、「日ア連50周年記念座談会」は中盤へ。
以下、中編で内容をご紹介する。<中編は1/27(金)朝公開予定>